毎日目標もなく淡々と生きていると、ときに無性にむなしくなることがあります。
特に私のように無職でひきこもっている存在は、世の中に何かを価値提供をしているわけではないので、お金にならない=無価値という感覚に直結しています。
それは本来自分がそう考えている信念、思い込みなのかもしれませんが、私の中に居座っている(陣取っている)非常に強力な観念です。
以前生きているだけで価値があるか?という記事を書きましたが、メリットを無理やりこじつけているような気がして、実際にはそう信じられない自分がいました。
私には生きることが許されていないように感じたのです。
しかし、自分が生きているだけで何かしら力になれることがあるのだろうか?と考えたときに、ある出来事に遭遇しました。
それは足が不自由なおじいさんの話です。
雨の日も風の日も暑い日も寒い日も
お昼の13~14時ごろ、近所の細い道を歩いているおじいさんがいます。
車でお見掛けするだけなのですが、毎日決まったルートを歩いているようです。
ステッキーをついて、右足、左足と、一生懸命足を動かしながら歩いていらっしゃいます。
昨日は大雨の中、雨ガッパを着ていました。そして夏の暑い日は麦わら帽子をかぶって、必死に歩いていらっしゃいます。
その姿を見て、
ああ、今日も歩いているんだ!
さぼったりもせずにえらいな
と心打たれることがあります。
私もウォーキングしていますが、毎日というわけでもなく週4,5日です。
今日のように雨が降っているとカッパを着てまで歩こうという気にはなれません。
その人から見たら、自分はただ歩いているだけですが、でもただそこに存在して毎日歩くという動作を頑張っているだけで周りの人に元気や勇気を与えているのです。
少なくとも私はそのおじいさんを見るだけで、元気をもらったと思っています。
自分ができることを毎日精いっぱい一生懸命頑張っている姿が、人の心を動かすのだと思います。
自分責めが始まる
逆に自分ができるのにやっていないということが浮き彫りになってきます。
そして自分責めが始まります。
働ける体はあるのに働いていないことで自分で許せないのです。
ちゃんとできることをやっていないことに対しての怒りや許せないという感情が出てきます。
そして自分を責めることによって
他人に対して
もう責めないで!
これだけ自分で自分をボコボコにしてますから、
もうこれ以上私のことを責めないでやってください
と世間様に向かって言っているようにも感じるのです。↓過去の記事にもありました
自分を許せていないのは
・働いていないこと
・昼間からのうのうとしていること
・お金を稼いでいないのに食べたり飲んだり、生活していること
とお金に関する罪悪感が非常に強いです。
お金を稼いでいないこと=無価値、生きている資格がない
という頭が止まりません。
お金を得るためには
人様に価値提供をしなくてはならない、とか
人の役に立てることをして初めてお金が入ってくると言います。
自分がこんなにもダメな人間で、何も価値を生み出していなくても存在していいという気持ちには到底なれないのです。
それこそ生きている間、ずっと罪悪感を抱えていて、きっと働いている間も感じていたものなので、今後働いていても働いていなくてもずっと自分のなかに根深く残っているものだろうと推測しています。
働いているときにも、
こんな弱い自分ではダメだ!
こんなふうに言われて言い返すこともできないなんて、
自分は本当にダメな人間だ、能無しだ
と責めることを止められなかったと思います。
そんなときどうしたらいいのでしょうか…
ずっと解決しない問題を心に抱えていて、とても苦しいです。
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